忘れはしない時と唄

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【小説】親指スマイル 『笑顔の意味』③ 

自分のことばかり考えていると、周りが見えなくなっていた。

こんなにも、みんなは俺のことを考えてくれていたのに。





 注文を取りつけて、俺は軽やかな足取りで会社へと戻った。
 仕事を取ってきたと聞きつけて、松本部長が俺の席までやってきた。
「よくやったな」と俺の肩を軽くたたいて、すぐその場を去っていったが。俺はそれだけで十分嬉しかった。
 去っていく彼の背中に向かって、ありがとうございますと頭を下げた。

 見積書を作成中に、大久保が営業回りから戻ってきた。何やら白い包みを手に持っている。
「ほら、土産」そういって手渡された包みの中身は、まだ温かいたい焼き。こいつなりに俺のことを気にしていたのかもしれない。そう思うとなんだかむず痒かった。

「どうだった、東部長さんは」
「まぁ……上手くいったよ。ゆきなのおかげでな」

 ゆきなちゃん? と小首を――大久保の場合は大首だ――傾げて訊ねてくる。
 そう、ゆきな。
 俺は大久保に今日あったことを簡単に話して聞かせた。
 大久保はふんふんと言葉を挟まず聞き役に徹してくれた。土産と言って手渡されたたい焼きを自らも頬張りながら。

「昼飯の後、俺いったん会社戻ってきたわけよ。そしたらな」

 松本部長が、大久保の直属の上司――岩木部長と談笑していた。そこで岩木部長が言ったそうだ。入江くん一人でKGプライウッドに行かせて大丈夫かなと。
 すると松本部長はかぶりを振った。

「こういう時こそチャンスじゃないか。夫婦でもそうだろ、喧嘩をして仲直り。それを繰り返して絆が深まる。あいつなら、それが出来るだろう」


 もしもここに松本部長がいたならば、俺は青春映画さながら「部長ーーっ!」と抱きつきに行ったかもしれない。そう考えると、いなくて正解だった。

「おまえ、期待されてんじゃん」

 ガハハと肩を揺らす大久保を見て、俺も照れ隠しにワハハと笑った。


 ゆきなの描いたスマイリーは、会社を出る前に手を洗った時にとうとう消えてしまった。
 厄日だと思っていた今日一日。だが、一日を終わりまで過ごしてみなければ、それはわからないものかもしれない。
 今なら言える。今日は本当に幸運な一日だった。
 だから俺は浮かれていたのだろう。大久保に、ゆきなの誕生日パーティへ招待する約束をしてしまった。
 大久保のはしゃぎように俺は少し冷静さを取り戻し、ほんのちょっぴり後悔してしまった。そこは秘密だが。


 会社を出ると、空には雲一つない星空が広がっていた。地上はこんなにも明るいのに、今日はやけに星が輝いて見える。気持ちの問題かもしれないが。
 俺は一つの星に向かって微笑んだ。それを妻に見立てて。

 ゆきなを産んでくれてありがとう。
 もう少しそこで見守っていてくれ。いつの日か、俺がそこに行くまでは。



『おまけのスマイル』へ続く
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