忘れはしない時と唄

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【小説】親指スマイル 『勘違いにはご用心』② 

嬉しい思い出より、辛い思い出の方が鮮明に思い出せるなんて。

俺の脳みそよ、世知辛いぜ。




 取り残された俺はというと。人目を避けるかのように、小走りで先ほど目をつけていた公園へと向かった。
 あの母親、子供とはぐれておきながらあの言い草。ちくしょうっ。
 飲み干したジュースの缶をゴミ箱へ向かって投げ捨てると、カコンと軽い音がした。結構離れた場所からだったにも関わらず、一発で入るとは……いやいや、こんな小さなことで大切な今日の「運」を使ってしまったじゃないか。何やってんだか、俺は。

 近くに備え付けられた時計台を仰ぎ見ると、午後一時半を差していた。約束の時間まであと三十分。
 あと三十分で、あの東部長に会うのか。何から話そうかまだ整理もついていないのに。
 ネクタイを緩めると、俺は空に浮かぶ雲を灰色に染め上げようと、大きなため息を吐き出した。そんな風に試みたのは、「例の事件」以来かもしれない。


「例の事件」とは、俺が松本部長と初めてKGプライウッドへ出向いていった時のこと。
 ぴかりと光る禿頭に汗を浮かべながら、これから会う東部長という人はちょっと難しい人だから気をつけろよ、と先に何度も念を押すほどだった。
 俺も噂には聞いていたから身構えていたのは事実。
 実際会ってみると、なるほどこれは気難しいタイプの人間だということが一瞬にしてわかった。
 目つきが違うのだ。発する言葉の温度が違うのだ。彼を取り巻く全ての空気が、他とは全く異なっていたのだ。
 いつも踏ん反り返ってお腹を突き出している松本部長でさえ、柔らかい物腰で笑いかけながら挨拶を交わしていた。

 東部長はその日、どうもご機嫌斜めだったのだろう。もしくは、多忙だったのだろうか。
 案内された応接室に入るや否や、俺たちに向かっての第一声。

「また来たわけ? 今日じゃなきゃ駄目なの?」

 松本部長と俺は、一瞬顔を見合わせた。まさしく、口がぽかんと開いてしまったのだ。
 ここ二、三日連続で、松本部長に商品カタログを持ってこいと電話をかけてきたのは、あなたじゃなかったですか? 東部長。

「失礼ですが、アポイントのお時間を間違えましたでしょうか?」

 そこはお客様が優位。松本部長は慣れた口調で切り返す。
 東部長が椅子に座らず立ったままなものだから、俺たちも座ることも出来ず立ちんぼ状態。大の男三人、張り詰めた部屋の中で一体何をしているのだか。椅子取りゲームか?
 東部長は返答もせずため息をこぼす。そこで俺の怒りバロメーターは一気に上昇。耳の奥でぐつぐつと煮えたぎる怒りのマグマ。

「……でしたら、申し訳ありませんでした。また改めますので、ご希望のカタログを置かせていただいて……」

 言いつつ松本部長が俺に目配せ。ああ、商品カタログを渡せということか。
 鞄からカタログを取り出していると、小声で名刺も忘れるなと注意された。当然だ、俺はここに訪れるのは初めてなのだから。
 迷ったあげく、俺は磨き上げたテーブルの上にではなく、直接東部長へカタログと名刺を差し出した。
 渡すや否や。
 目の前で名刺をビリビリと破かれてしまったのだ。

「もう来なくていいよ」

 耳を疑う言葉を吐き捨て、東部長はさっさと退室。彼の背中に、こちらを見て笑っている底意が見えた気がした。
 床には、見るも無残な俺の名刺。戦友が目の前で死んでゆくさまに似ていた。
 怒りのマグマはすでに耳から流れ出ている。そんな状態だから、俺の耳には松本部長の声はもちろんのこと、通常の人間に備わっている警笛が聞こえるはずもない。
 帰り際、みっともないことに受付の女性へ告げ口してしまったのだ。

「どうも東部長さん、今日は機嫌が悪かったみたいですね。普通しますかね、渡した名刺を目の前でビリビリと破くなんてこと。正直ちょっと、今まで出会ったことのないタイプで対応に困りましたよ」

 彼女はひきつった笑みを浮かべ、そうですかと小さく応えた。
 その瞬間、ああ俺ってまだまだ子供だなと反省してしまった。人にこんな、しかもお客である会社の受付嬢に愚痴をもらすなんて。

「それは悪かったね」

 そう。愚痴を敵地でもらすなんて、以っての外だ。



『勘違いにはご用心』③へ続く
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カテゴリ: 中編

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